「死の行進」と呼ばれた戦史は、フィリピンの休日にもなっている。しかしながら、バターンの人々の日本人に対する印象は、別段悪い物ではない。むしろ、アメリカ統治時代に、左翼ゲリラに肉親を殺された人々の記憶が強い。経済的にも、バナナ農園で搾取されているアメリカ資本への恨みが強い。

バターン半島は、ルソン島南部、マニラ湾を挟んで首都の対岸だ。マニラ側の東岸、州都バランガでさえ、10キロ内陸に入ればジャングルだ。西岸のモロンは、ところどころ海岸線近くまで密林がせり出している。

ヘルトルーデスは、私のために4LDKの一部屋を、専用で割り当ててくれた。家の横は林、その先はジャングルだ。夫ルペルトが、私の入国より一日遅く、出稼ぎ先のサウジアラビアからクリスマス休暇で帰国するまでは、何事も彼女が采配を振るう。

実際、4LDKなのかはわからない。私の寝泊まりする部屋がある一階には、私の部屋と居間、食堂とトイレがあるのみだ。少なくとも、私以外の家族7人と、祖父母の望まぬ父を持つ子を宿した大きなお腹を抱えて、実家には戻れぬ次女の同級生は、残りの部屋で寝ることになる。

夜には、隣人がワラワラと集まってきて、希な外国の客に挨拶をしに来る。酒盛りだ。私は奮発して、近所のサリサリストアで、プンタドールという蒸留酒と氷を買ってきた。一ビン千円ほどの酒だが、ここでは最高級酒である。

フィリピン人は氷を「イエロー」と呼ぶ。氷の実物を見ればその訳が分かる。強い蒸留酒を、ストレートで飲む羽目になった。

フェルディナンド・マルコスが大統領だった頃、この国の唯一の公用語は英語だった。小学校に通えた大人は英語が堪能だ。しかし、二世紀もの間宗主国だったスペイン語の影響が強く残っている。ハリウッド英語しか聞く機会のない日本人には、なかなか聞き取りにくい。

誰かがVideoCDデッキを持ち出して、カラオケが始まった。二、三十年前のアメリカン・スタンダードに混じり、タガログ語の歌もある。この国のおじさん達が歌う演歌といったところだろうか。音痴の私は、マイクが回ってきても遠慮した。

そして、この国の常は停電だ。電気が止まれば水も止まる。送圧が減った水道から、全家庭が一斉に貯め置きを開始するため、蛇口から出てくる水は、益々細く、茶色くなる。

首都マニラを優先させるため、一頃は毎晩、周辺都市で順番に電気が止まる停電リレーがあったそうだ。滞在中も、三度は停電にあった。お蔭で満天の星が、欲しいままだ。

田舎でも夜店が出る。クリスマスシーズンなら尚更だ。ルペルトの末息子、ロムニックが私の手を引いて誘い出した。手みやげのプレステが功を奏し、私は即座に、少年のアイドルとなったのだ。

少年は、テキ屋の開くルーレットをしきりにやりたがる。大人は、胴元が圧倒的に勝つことを重々承知なので手を出さない。だが、貧しい者ほど射幸心を煽られ、この国でもギャンブルは盛んだ。元手の少ないギャンブルは、絶望的に勝てないものだ。少年よ、大きくなって、儲けてからラスベガスに行け。破産してもその責任を、自分で取るのが大人だ。

100V仕様のプレステを、誤って降圧トランスを介さずに220Vのコンセントに差し込むと、当然のことながら、一条の煙と共に昇天する。ここが日本ならば、少年の宝物は廃棄物となるわけだ。しかしこの国では、自動車でも電機製品でも、可能な限り自分たちで直す。そして、エレクトロニクス・エンジニアたる私のカブを、更に上げるチャンスだ。中を見て、壊れている可能性のある部品をリストアップし、翌朝、モロンから北へ20km程のオロンガポ市へと向かった。

かつての米軍基地の町は、日本で言えば横須賀といったところだろうか。ショッピングモールから個人営業の工具屋まで、なんでもある。そして、十年前の秋葉原の部品屋もどきまで。三菱のMOSFETと東芝のダイオード、電解コンデンサを買って、見事にプレステは生き返った。インターネットで部品のデータシートまで見ることができていたなら、220V仕様に改造してやったのだが。

子供は大人のコピーだ。良きにつけ悪しきにつけ、彼らの行動の起源は大人の行動である。

この国の殆どの人にとって、路上はゴミ捨て場だ。ある時、ロムニックの叔父が車の中のトラッシュ・ボックスを、汚れた小川にぶちまけた。「フィリピン・スタイル」と言って、彼は笑顔を見せた。

別の日、煙草の封緘を開けたときに、私は紙ゴミを道に落とした。それを拾っていると、ロムニックが見ていた。私が携帯灰皿を持ち歩いていることも、少年は承知している。そして、その意味もだ。

菓子の包みを開けたとき、少年の手からゴミが落ちた。少年はゴミを拾い、私の顔をうかがう。微笑んで頷くと、少年も満足そうな笑みを浮かべた。日本のゲーム機など取るに足りない。この土地、この川、この海こそが、君たちの財産なのだ。


(2000年頃の話です)

イエローは、かつての宗主国の言葉、スペイン語の「hielo」(イエーロ、イエロ:氷)が、本当の語源なんでしょう。でも、どう聞いても発音は「yellow」(イエロー、イエロウ)です。

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